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人間やりたい記

人間やりたい記
07・7・11(水)
富士山小屋記 淡々

 大きな岩がごろごろとした裸の山肌に、へばりつくようにある山小屋。岩が長い年月をかけて、自然とこの山小屋になったかのように、本当によく富士山に溶け込んでいる。今夜の宿、富士山須走口7合目“大陽館”に着いたのが、午後4:00を少し回った頃だった。見渡す限りの雲海。飛行機からしか見たことがなかった景色が、今、眼下に遠々と広がっている。6時間ほど前には、環八の大渋滞に参加していたことを思うと、なんとも不思議な心持になる。

「どっちが本当なんだろう?」ヘンテコな疑問と見つからない答えに、なんだかバランスがとれなくなる。5合目を出発してから、登ることだけに集中して来たからか、解放された頭が暴走している感じだ。フワリフワリと、体が自分のモノじゃあないような気がしてきたので、慌てて薄い冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した。何度もゆっくり、ゆっくりと深呼吸を繰り返しているうちに、落ち着いてきた。

「とにかく富士山を楽しもう…!」そう気持ちを入れ直すと、大陽館の入り口近くにいた、小屋の者らしき山男に、予約の名前を告げた。

「予約した南ですけれども」

「あーーーはい、南さん…」ごつごつして土黒い山男は、やはり小屋の人間だったが、予約の確認をするでもなく、便所の使い方??水はひしゃくで便器脇のバケツからすくって、1〜2杯流す程度に止めること。歯磨きや洗顔は禁止であること。など、水が大変貴重であることを一通り不器用に説明すると、早速、奥の大部屋、今夜の寝床へと案内した。

大陽館は、その入り口を抜けると直ぐに細い通路で、左手に個室便所が5室ばかりドアーを並べる。向かいには、10畳ばかりもあろうか、小屋で働く山男の部屋。突き当たりを右に、山男部屋の脇を抜けると、30畳ほどの宿泊者用の大部屋。その奥に15畳ばかりの食堂。それだけだ。

案内された大部屋は、左右に巨大な2段ベッドの体を成しており、そこに一切の隙間なく布団が敷き詰められている。下からでは解り難いが、2段ベッドの上には、屋根裏部屋のよう天井ギリギリに、さらに3段目の寝床があり、ここもやはり布団に埋め尽くされている。とにかく、出来うる限り、一人でも多くの人に横になれるスペースを提供すること、のみを考えに考えて作られた空間。結果、整然、簡潔に仕上がったこの部屋は、無口だけれど力強く、美しい。

部屋の中央に置かれた石油ストーブは、7月でも大いに燃え、懐かしい臭いを放っている。天井からはランプが4つばかりぶら下がっており、陽が落ちると、灯りが点る。すっかり都会的な生活に慣れてしまった者には、幻想的な絵に映ってもよさそうなものだが、意外とそういった感動はない。それは、ここが意図的に山小屋らしくしているのでも、なんでもなく、ただただ自然とこう出来上がったからなのだろう。

大部屋に入ってすぐ左手、2段目の角が今夜の僕のスペースだ。枕もとにリュックとビニール袋に入れた靴を置いて、着替えたり荷物の整理をしていると、早くも夕飯の用意が出来た旨を、山男が告げに来た。まだ17:00だが、これに関しては予約した時に聞いていたので、問題ない。夕飯の時間に合わせ、早めに昼食をとっていたので、気付けば腹ペコだった。小屋の雰囲気もなんとなくつかめて来たので、僕は意気ようよう隣の食堂へと向かった。

食堂は畳敷きで、中央には囲炉裏が切られている。その向こうに長机が一つ出されており、茶碗やおわんや鍋やおひつが、いっぱいに並んでいる。僕は机の一角を陣取ると、多分生まれてこのかた、最も早い夕飯にありついた。豚汁とご飯、小さなハンバーグが恐ろしいほどに美味かった。放っておいたら5杯でも6杯でも食べてしまいそうだったので、心を鬼に、3杯で食い止めた。

夕飯には結局7人ほどが集まったのだが、どうやら今夜の宿泊者はこれで全部のようだった。明日は予約だけで50人入っている、と山男達がほんの少しだけ憂鬱そうに話していたので、小屋全体に流れる穏やかで緩い空気は、今夜の宿泊者が少ないことにも端を発しているようだ。

長机の脇、僕のすぐ隣に教壇のような机が一つあり、そこに向かって小屋の主らしき人がずんぐりと座っている。頭に小さなヘッドライトを点けて、どうやら新聞に目を通しているようだ。山小屋では水と並んで、電気も大変貴重だ。夜はランプを灯す。17:00頃だと小屋の中はかなり薄暗いけれど、まだランプは点かない。飯を食うのに支障は来たさない程度の、明るさだからだろう。しかし、とてもとても活字は読めない。

ヘッドライトを点けた主は、ほとんど動かずに新聞を眺め続けている。机と椅子と同化してしまった妖怪のようだ。妖怪山ゲルゲだ。

ふと、山ゲルゲが僕の正面で飯を食っているおばちゃんと、二言三言言葉を交わした。気圧のせいか耳が本調子でない僕には、聞き取れない。あやふやに聞き流していると、しばらくして、今度ははっきりと、

「山は登って終わりじゃあないよ。そこからまた始まるんだからね。」山ゲルゲの誰に言うでもない、ボソリと呟くような言葉が、耳に届いた。

この言葉は下山中、嫌って言うほど繰り返し繰り返し思い出された。“下り”をなめていた訳ではないのだが、やはり“登り”のことばかりを考えていたのは事実で、下山の道程の、それはそれは長く険しかったこと。急な下りの砂地に疲れきって、踏ん張りが利かず転倒する度に、「ほらみたことか〜〜〜」と笑う山ゲルゲの、小さなヘッドライトをおでこに点けた、ずんぐりむっくりがよみがえるのだった。

夕飯が済むと、もうやることなんてない。外に出て、空や雲を眺めているのは、飽きなかったけれど、陽が落ちるとあまりに寒かった。仕方がないので布団にもぐりこむのだが、前日ほとんど寝ていなかったから、2時間ばかりはぐっすり眠れたが、後はもう目が冴える一方だ。明日は4:00起き、御来光を拝んで5:00には朝飯だ。なんとしても寝ないと…寝ないと…寝ないと…なんて時に眠れた試しがない。23:00頃だろうか、寝ようと努力するのにもいい加減飽きたので、セーターやら防寒具を重ね着すると、えいやっと外に出てみた。外はあいにくの曇り空。上下左右、雲じゃあない部分を探すのが難しい。それでも僅かに明るい富士山の寒夜、深々と煙草をふかして、呆然と雲を眺める。と、果たして、強風に雲が流されたか?頭上、雲の合間にキラキラと星の群が現れた。キラキラと幾重にも、遠く、近く折り重なって、星が瞬いている。そう言えば遠い昔、こんな夜空をよく眺めたっけ…



空気が、透き通る瞬間



今ここに溢れる

とてもシンプルで

とても大切な時間の流れ



今ここで感じる

とてもナチュラルで

とても愛すべき時間の流れ



朝、昼、夜、土、水、風、雲、星、月、太陽…

人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人人

万、万歳だ!



やがて陽が昇る

やがて陽が昇る


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